CO2

はきだめ

もしも

 

ある映画を見た。「トガニ 幼き瞳の告発」

とても消化できてしまう内容ではなくて、観たあと深夜だったためにすぐ眠りにつくことは出来ず、嫌なシーンがフラッシュバック。しばらく記憶の逆流性食道炎に陥っていた。

率直な感想としては、人間の業、欲があってこれを制御できずに誰かを傷つけてしまうのは仕方がない。語弊を恐れずに言うのであれば。問題はその後だった。その後、誰かに傷を負わせた後に本来であれば償うはずの罪を、この映画ではひたすら隠蔽、工作、破棄の繰り返しだった。罪の意識が自分たちの保身に霞んでいた。いや、そもそもこういう行為を児童にして当然だ、と思っているのかもしれないが。もしそういう意識があるのであればもう法ではなく、私刑に頼らざるを得ない今作の結末には深く納得できる。僕が一番許せなかったのは、そうした加害者が不浄の隠れ蓑に宗教の後光を利用していたところだ。

「この方は篤志家で」「私たちのために多大な貢献をされました」容疑者を擁護する団体は口を揃えて言うし、加害者本人も「キリスト教会の長老だぞお前を首にしてやる」と暴言を吐く始末。なぜこれほどまでに自意識が肥大してしまうのだろう。なぜ宗教と富が絡むと特権意識が生まれてくるのであろう。

許せないことではあるが、少し考えてみると都市部に住む僕にとっては理解できない点が多々あることに気づいた。宗教が発展する特徴、今作では加害者が宗教を携えあの町(いかにも住民の平均所得が低く描かれていた)で受け入れられた理由を、視点を変えてみるとそこには誰も触れようとしなかった社会問題(障碍者の教育)を自ら慈善事業として取り組んだ姿勢、そしてそこに宗教の教えを織り込むことによって「彼こそ体現者だ」という意識が爆発的に芽吹く。その背景はわかるんだ。

だけど、なぜ性的児童虐待がそれほどバッシングを食らわず、執行猶予付きで一部の人間が復職できたのか、そこを考えようとしても僕の中では論理的な帰結は見いだせずただ「宗教は毒にも薬にもなる」という感想しか出てこなかった。

今回の問題もそこにあると思っていて、基本的に宗教に「群がる」人たちというのは弱者で、群がってしまうと無知で従順な集団へと早変わりしてしまう。今回はその集団を悪色に染めてしまったのが問題だった。コントロールのしやすさが仇となってしまった。

宗教なんて無くなってしまえば良いんだ。極端ではあるが、こういう事件を0にするのであれば、そして人間のコンプレックスを取り除くには宗教を取っ払うしかない。